2017.03.23

龍次郎さんのこと−その23 龍次郎さん、北条に育つ

明治11年に北條村に生まれた龍次郎さんは、明治23年ごろ生まれた家を出て野口寧斉塾で学び始めることになります。現在の制度であれば中学生になるくらいの年齢に、家を離れて学んだわけです。龍次郎さんのことですから、張り切って学んだであろうとは思うのですが、まだ少年と呼ばれる年齢。心細くなかったのだろうか、家が恋しくはなかったかなど、ついつい想像してしまいます。

家を出て野口寧斉塾で学ぶ前、生まれ育った場所の人々や環境、空気感などは自然と感じながら暮らしていたはずですから、その頃の北条の町も、龍次郎少年に、その後の発明家であり事業家である龍次郎さんに、影響を及ぼしていたはずだ、とも思います。

北条は在郷商人の町。近世にはすでに江戸・大阪・京都などの三都商人と取引するほどの商人もいて、地方でありながら、農村とはまた違った威勢のいい活気があったことでしょう。特に、龍次郎さんが少年時代を過ごした明治前半は、鬼怒川舟運の拠点である宗道河岸からの交通も盛んで、そこから馬や荷車で陸送されたと言いますから、たくさんの商品が行き来する様子もご覧になりながら育ったのではないか。明治29年に常磐線が開通するまでは、土浦商人に匹敵すると言われていたそうで、北条が大変な活気のあった時代だったのです。

街の活気ある空気を感じながら育った龍次郎少年は、大きな商家が忙しく取引する中、小学校に通ったり、お友達と遊んだりしたのでは。もしやご近所でお手伝いをしてお小遣いをもらった、なんてこともあったかもしれないなあと、妄想も膨らみます。馬車や荷車が行き来する中、元気に馳け廻る龍次郎少年を思うと、ワクワクするような気持ちになるのです。

在郷町として栄え、地域商業の中心地であった北条は、東西に延びる主要道路に面して、南北に敷地が並び、間口が狭く奥行きが深い短冊状の敷地が多いのです。矢中の杜も道路に面する間口は、とても狭く、「えっ、この奥に邸宅なんてあるの?」と思えるほど。

奥にね、あるのですよ、昭和の御殿が!

道路から見えないところに、ひっそりと、いや、ガツンと建っている姿がまた、矢中の杜を面白く見学できるポイントの一つではないかと思います。

次の邸宅公開は3月25日(土)です。
4月1日(土)に開催される「国登録文化財巡りin北条」は定員まであとわずか。お早めにご予約ください。

ナカムラ

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