矢中の杜活動史 第36回—東日本大震災①

こんにちは。早川です。

活動史もterao君との交互の更新で36回目となりました。ここまで呼んでくださった読者の皆さん、ありがとうございます。私の記事はだらだらと思い出を綴るとりとめのないものでしたが、このHPができる前(前回記事参照)のことを知ってもらえる機会に慣れれば有難い限りです。

というわけで活動史では、「東日本大震災」と「北条竜巻被災」の2つについて話をしたいと思います。それぞれについて、ぼくとterao君とで書いていこうと思います。震災については、辛い記憶とお持ちの方もいらっしゃると思いますので、以下の記事はそれをご承知の上でお読みください。


2011年3月11日午後2時46分。その時、ぼくはTXエクスプレスの電車の中にいました。守谷駅で停車中に揺れが起こり、そのまま大きな揺れとなって電車の運行停止がアナウンスされたと記憶しています。プラットホームには、過呼吸で抱きかかえられている人もいました。

とりあえず守谷駅の外に出たものの何が起きているかはわからず、twitterを開いて「大きな地震」が来て「大変なこと」になっていることだけを理解しました。電話は繋がらず、twitterで連絡のついた後輩に迎えに来てもらい、翌朝、当時「管理人」として住んでいた矢中に向かいました。(管理人時代の記事は、第18回第20回あたりをご覧ください。)

震災翌日の北条地区は水道が止まっていました。(電気もそうだったかな…ここはあやふやです。)矢中に着くと、擁壁や灯籠が崩れていたり、瓦が落下していました(写真)。邸宅の中に入ると、調度品が落下して破損していたり、大きく揺れたせいで天井から漏れ出たホコリが床に散乱し、まるで最初に邸宅に足を踏み入れた時のような汚れ方をしていました(写真無)。

 

    

当時の気持ちを思い出すのは難しいですが、「また一からやり直しなのか…」という気持ちとその他の地域の惨状からすれば「このくらいで良かった」という気持ちが混ざり合った複雑な感情だった気がします。北條地区でも、矢中より瓦の損傷が激しいお宅はありました。

ただし、震災から3日目には、現・五十嵐市長(当時市議)を中心とした有志によって組織されたボランティア団体が邸宅の清掃に来てくれました(瓦の写真はその一人です)。この時点ではまだ被害の全容を把握できていなかったのですが、facebookのようなSNSを通じてボランティア活動が展開される力を感じたのを覚えています。そして、この時点で、まだ水道は復旧してなかったと思います。電気は2日目には復旧していたので、日没後は管理人室で主にtwitterで情報収集していて、いわゆる「放射能」にまつわる話も何が何だか消化できない状態で矢中の夜を過ごしていたのも記憶にあります。日本中が混乱している中で、矢中の未来についてなんて到底描ける状態ではありませんでした。もちろん、邸宅公開も安全性が確認できるまで中止でした。

※余談ですが、震災当日のぼくは就活で面接に行く途中だったもののそれも中止となり、またそれらのダメージからしばらく就活を進める気にもなれず、自分自身の人生も真っ暗な状態でした。

ただ、幸い?にもぼくは学生(院生)でした。とりあえず作業をする時間はありました。建築の専門家ではないので被害の状況を正確に把握することはできませんでしたが、以前の状態を目指すことはできます。あの「廃墟」をここまで綺麗にできたんだから、なんとかなるはず。そのくらいは前向きで入られたような気がします。

というわけで、「復興」に向けた取組みは次回の記事にしたいと思います。


次回の邸宅公開は1/20(土)です。本年も引き続き、矢中の杜をよろしくお願いいたします。

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