こんにちは、早川(公)です。
今回は2012年5月6日におきた竜巻被災についてです。
災害の話が連続するとまだ少し心が当時を思い出してざわつきますね。今回も、何度か記事を書く手が止まりながら、当時を思い出しつつ書いています。
第37回の記事にも紹介がありましたが、ぼくと寺尾くんが大学院を卒業したのが2012年3月です。
ぼくは、色々考えた末に、都内の会社につくばから通い、週末は矢中の杜に行くという「二足の草鞋」で活動することにしました。5月6日は休日で、吾妻地区のアパートにいたぼくは、「北条が大変なことになっている」という電話を受けたと思います。それで、車を走らせてむかうと、信じられない風景が眼前に広がっていました。
社会的な衝撃は東日本大震災の方かもしれませんが、ぼく個人としては竜巻の方が大きかったです。
実は、当日のことはあまりよく覚えていません。何が当日の記憶で何が別の日なのか…。
ただ報道ヘリの音が耳障りだったことと、呆然としているぼくにとある商店主さんが近づいてきて、
「これで廃業です」
とぼくに伝えたことはよく覚えています。その方の店舗はほぼ全開状態でした。
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北条の街と同様、矢中の杜の被害も相当なものでした。
(ちなみに、矢中の杜が北条地区における被害のほぼ東端でした。)
当日の写真は、過去のこの記事に載っていますが、一枚だけ掲載すると下のような状態です。
ガラスの破損、調度品の損壊、倒木、塀の倒壊(奥の北条小学校を塞いでいました)…目の前にある現状は本当のことなんだろうか、とぐるぐる考えました。
ひとまず、写真撮影や通路の確保など最低限の状況を確認し、翌日からの作業の確認をして解散したと思います。
そしてここからまずは1か月、そして七夕までの2か月の「復興」が始まります。
これらの記録については、当時のメンバー(特に現理事長の井上さん)が丁寧に当時の活動を綴ってくれています。その軌跡をたどると、おおよそ以下のような流れです。
5月6日:被災当日。被害状況の確認
5月7日:邸宅のガラスや倒木の処理。北条は自衛隊や消防による作業の状態。野次馬渋滞。
5月8日:廃棄物の拾い、捨でる。メディア対応(諸々)
5月9日:電気が復旧。地元向け「北条街かど新聞」の発刊。情報発信体制の構築。
5月12日:初めての週末。ボランティアの受入れ。遠方からも「関係者」が集まってくれた
5月13日:寄付受付の準備開始。→5/29に法人として状況が整う。
5月18日:「矢中の杜おやすみ処」の開設。〜5/27まで毎日実施。
6月3日:土浦市の元材木店の方からトラック2台分の材木の寄付をいただく。
6月8日:被災から1ヶ月。「復興!北条七夕」祭り実施の決定。
6月20日:(この頃)復興モニュメント「竜の子ゴブリン」の製作(北条小学校と同時に)
7月7日:「復興!北条七夕」祭りの開催。ゴブリンワークショップ、こども服バザーなど
7月20日:「北条街かど新聞」が閉刊。(まだまだ復興は続くけど)一区切り。
ぼくも、当時のブログ記事を読んだり、自分の体験を思い起こしながら整理してみました。
こうしてみると、本当にものすごい早さで、テンポで、色々なことが進められていたことがわかります。当時、ぼくは理事長でしたが、改めて関わってくださった皆さんにありがとう、と言いたいです。
会社勤めになっていたぼくは、理事長のくせに週末のボランティア活動しか参加できませんでした。毎日「今みんなは北条で頑張っているのに、何をしているんだろう」とパソコンに向かっていたようにも記憶しています。
ボランティアに行くと、「嫌なこと」が沢山ありました。野次馬渋滞、野次馬と間違われて住民の方に罵られたこと、東京から調査に来た大学関係者の無神経さ、マスコミの報道の仕方…etc。
一方で、矢中の杜で、北条で顔を合わせた人たちの「気持ちのいいこと」もそれ以上に受け取りました。活動中の笑顔、御用聞きで訪ねた住民の方の感謝の言葉、柔軟に活動する「北条街かど新聞」のメンバー、献身的な行政や社福の職員、外部からの励ましの言葉…etc。
当時のブログに井上さんも綴るように、竜巻を通じてみえた「つながり」、あるいはそこから紡がれた「つながり」も大きかったように思います。また、「復興を楽しむ」という言葉に象徴される、関係者の前向きな感覚も、活動を強く下支えしたと感じています。
今回の記事では状況をざっと整理しましたが、次回(tera)は、多分、街かど新聞の話とか、カートで回ったボランティア活動のこととかを書いてくれると思います!
梅の花の便りも聞こえる季節になり、矢中の杜の木々も徐々に春の支度を始めています。
次回の邸宅公開は3/17(土)です。春の気配を探しに、どうぞお越しください。