2016.06.12

龍次郎さんのこと その2ー龍次郎さんと漢詩塾

平成2年発行の「筑波町史」に、龍次郎さんが次のように紹介されています。

”矢中龍次郎(一八七八~一九六五)明治・大正・昭和期の実業家

明治十一年五月北条に生まれる。小学校を卒業後上京し、野口寧斉塾に学ぶ。同二八年東洋堂書店に入社。同三七年日露戦争に出征し金鵄勲章を授与される。同三九年満州に渡り、矢中商会を創設する。大連市に化学研究所を設立し優秀なセメント防水剤「マノール」を発明する。大正十年東京に事業を移し油脂加工社の社長となり「マノール」生産工場として発展した。昭和十一年帝国発明協会表彰、東京都知事表彰などを受け、同三〇年四月紫綬褒章を授与された。”       「筑波町史 下巻 筑波の人物」より引用

小学校卒業後に、野口寧斉塾に学ぶとあります。この野口寧斉さん(慶応3年~明治38年)、明治中期を代表する漢詩人で、漢文・漢詩の教育にも力を入れた方。正岡子規と並び評される人気の漢詩人だったそうです。道徳的なこと、国家や社会のために貢献する人を高く評価する批評家でもありました。

当時(明治20年頃)漢文は公文書などでも使われなくなったものの、漢文・漢詩は、教養として必須で、少年たちは自作の漢文を雑誌に投稿するなど、競って学んだのだそう。

漢文しかも白文を見ると頭が働かなくなる身としては、ティーンエイジャーの少年が漢文を学ぶのは、随分と難しいことのように思えますが、その時代には当然のように挑戦したのでしょう。

この多感なころに野口寧斉塾で学んだことは、のちに満州に渡ったとき、東京で事業を起こしたときなど、ずっと龍次郎さんの力になったのではないでしょうか。そして教養を積み重ねたことは、後々矢中の杜の建設の際に活かされたのではないかと思うと、何やら龍次郎少年を応援してあげたくなるような不思議な気持ちが湧いてきます。

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矢中の杜の別館には「中国風」のデザインの建具があります。当時の和洋折衷デザインの中に取り入れられた「中国風」は”建築主の高い教養を暗示する狙いによる”とも言われており、ニヤリとさせられつつ、イガぐり頭の初々しい龍次郎少年が漢詩の勉強に勤しむ姿を妄想してみるのでした。

 

矢中の杜、次回の公開日は6月18日(土)

いよいよ手ぬぐい展2016が始まります。矢中の杜で涼しい風を感じてください。

ナカムラ

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