満州大連にわたり、建材の輸入を始めた龍次郎さん。当時は、大変な船舶不足で輸入業務が滞っていたのだそう。
そこで、熟考の結果、「建築材料のような重量のものを輸入に待つのは得策ではない、むしろ現地の原料を化学的に研究して、輸入品を凌ぐ製品を造れば、一挙両得」と、これを関東都督府及び南満州鉄道株式会社に上申。
すると、「稀に見る建設的な意見である」とされ、全面 的に援助されることとなったのです。
明治43年、関東都督府より発明保護奨励金の下附を受け、大連に「私立化学研究所」を設立。この時、龍次郎さん満32歳。のちの油脂化工社(現:株式会社マノール)の前身の設立です。
「私立化学研究所」設立にあたっては、満鉄中央試験所、応用化学科科長であった鈴木庸生博士の技術指導をうけました。(写真は昭和6年の国民新聞に掲載された鈴木博士)
この鈴木庸生博士、当時「満鉄の至宝」「怪物」などと呼ばれるほどの才気闊達な方で、化学の分野だけでなく、語学も堪能な、名物研究者でした。相当な酒豪で、お酒を飲みながら若い研究者たちと論じあったのだそう。酒の上の失敗も多々あるそうで、なにやら豪快で楽しげな方です。その上、若い中学出の研究助手を集めてに微積分をわかりやすく講義したりすることもあったりと、大変な人格者で、龍次郎さんはここでも素晴らしい指導者に恵まれたようです。
龍次郎さんも鈴木博士たちとお酒を飲み交わしたりなさったのでしょうか。20代から30代にかけての青年時代を、満州という新たな地で過ごし、性来お好きだった化学の指導を受けて成果を出すのだと思うと、こちらまで胸を張りたくなります。
矢中の杜の書斎には、龍次郎さんが使われていた机が展示されています。その机を見ながら少年時代から化学好きだったという龍次郎さんが、ここでどんなことを考えていたのだろうなあと、想像してみると、満州で研究に勤しむ時代の息遣いが感じられるように思えてワクワクしてくるのでした。
次回の公開は10月1日(土)です。
筑波山麓秋祭りにあわせた秋のイベントももうじきです。
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ナカムラ