2020.02.08

龍次郎さんのこと その35 龍次郎さんと蔵田さん

矢中の杜の杉戸絵を描いた南部春邦画伯。龍次郎さんとの出会いは1933年のブルーノ・タウト氏の日記に出てくる「蔵田氏」がもたらしたのでは。という推測を前回ご紹介しました。

日記に出てくる「蔵田氏」とは南部春邦さんの甥御さんの蔵田周忠(クラタチカタダ)さんのこと。建築家、建築評論家、編集者、教育者、さらには民家研究者、家具デザイナーなど、幅広い活動をした、多才で努力の人と言われています。

この蔵田さん、大正11年(1922)の「平和記念東京博覧会」に技術員として参加しています。そうです、龍次郎さんがマノールを提げて参加した、上野で開催された「平和記念東京博覧会」です!この共通点から南部春邦さんと知り合う糸口は蔵田さんなのでは?と思うわけです。

平和記念東京博覧会は、現在の上野公園一帯を使った大規模な博覧会。

施設建設の技術員として参加した蔵田さんは、ここで堀口捨己氏らと出会って、分離派建築会に参加します。海外の建築を日本に紹介するなど、モダニズムの啓蒙家としても活躍し、自身もモダニズム建築を設計していきます。

こういった活動とともに、龍次郎さんとも接点があったのではなかろうか。
龍次郎さんが研究する防水の建材はモダニズム建築に使うことを想定していたのではなかったのか、と龍次郎ファンとしては思いも広がります。

蔵田さんの随筆集「陸屋根」(S15年刊)には陸屋根を特徴にもつモダンデザイン住宅の記録が記載されています。随筆集に「陸屋根」の名がついたのは、「蔵田さんといえば陸屋根だ」という印象が強かったからなのだそう。

龍次郎さんも矢中式陸屋根を売り出しています。矢中の杜では実際に矢中式陸屋根の堂々した姿を見ることができます。「陸屋根」というスタイルが時代の風とともに広がり、その風をつかんで矢中式陸屋根を世に送り出したのではないか、と思えるのです。

実際のところ、蔵田周忠さんと接点があったのかどうか、はっきりした答えはわかりません。それでも、同時代に同じ博覧会に関わり、陸屋根のキーワードも同じですから、ついつい期待してしまいます。

まだまだ謎の多い龍次郎さん。
もっと知りたいという気持ちと謎は謎のままが楽しいという気持ちとがせめぎ合いますが、やっぱり魅力的な方だなという結論に達するのでした。

ナカムラ

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