2017.02.05

龍次郎さんのこと その21ー龍次郎さん、小学校へ。

IMG_0148矢中の杜には、明治18年(龍次郎さん満7歳の頃)に発行された、「北條小学校初等科第六級卒業」の証書が残っています。お名前の漢字が違うのはご愛嬌なのだろうか…と引っ掛かりつつも、「第六級卒業ってなんだろう?」と不思議に思い調べてみると、明治12年に発令された「改正教育令」によるものでした。

明治5年に発布された「学制」が、明治12年、「教育令」に変更され、その後改正がなされました。小学校の教育課程の基準については、明治14年に「小学校教則綱領」が定められ、小学校は、初等科:3年、中等科:3年、高等科:2年の三段階編制となったのだそう。初等科6級、中等科6級、高等科4級の昇級制度が設けられており、半年ごとに試験をして、6級から順に昇級していったわけです。初等科と中等科の卒業の時には昇級試験よりも重要な試験が行われたようです。

今に残る「北條小学校初等科第六級卒業」の証書は龍次郎少年の順調な学業の進み具合を示していると言えましょう。また、初めての小学校で、初めて試験に合格した証書でもあるわけで、今に至るまで保存されているわけもわかるように思います。

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無量院(梅松山光明寺)

この証書が発行された頃、北条小学校は無量院にあったのだそう。明治7年に開校しています。無量院は、多家太郎様と親しまれる平義幹が開いたと言われる北条に古くからあるお寺で矢中家の菩提寺でもあります。
矢中の杜(旧矢中家住宅)から無量院へは、北条商店街をまっすぐ西に進みます。北条商店街が、龍次郎少年が通学していた道だったかと思うと、少年をそっと見守る街の人になった気分で、しっかり勉強したまえよと声をかけたいくらい。

無量院は、その後小学校が別の場所に新築され、学びの場ではなくなりましたが、矢中の杜建設時には、南部春邦画伯が杉戸絵を描く場所として使わせていただいたのだそうで、今よりも街のお寺の存在がずっと身近だったのだろうとも思います。

矢中の杜があるのは、つくば市北条地区。龍次郎さんが生まれた頃の「筑波郡北條村」はその後、明治20年に「北条町」に変わり、昭和30年に合併して「筑波町北条」に、昭和63年には「つくば市北条」となり、今に至ります。様々な変化がある中で、今に残るものには、人の力や気持ちももちろんの事ながら、何かそのもの自体に力が内包されているのかなあとも思え、古くからの街に残る「矢中の杜」を見つめ直すのでした。

次の公開日は2月11日(土・祝)です。
皆様のお越しをお待ちしています。

ナカムラ

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