2018.02.23

矢中の杜活動史 第37回—東日本大震災(2)

こんにちは。teraです。
矢中の杜活動史、第37回は東日本大震災の続編(復興編)です。

邸宅の掃除を始めたのが2009年の4月、NPOを設立したのが2010年の5月ですから、2011年の3月は、掃除を初めて2年、NPO立ち上げ初年度の末の出来事です。隔週で始めた邸宅公開も徐々に定着してきて、口コミで知ったというお客さんも増えてきた頃だったでしょうか。初めて迎える年度末の事務作業(小規模とはいえ法人なので)や、翌年度の事業計画など、NPO活動も少し忙しい時期だったように思います。

そんな中での大地震。被害の状況は前回の早川さんの記事にまとめています。
3月11日は、横浜で所用の後、早川さん夫妻とAAPAの公演を見に行くはずだったのですよね。その公演も地震のため中止となり、帰宅困難者となった僕はひとまず横浜の実家に数時間歩いて帰りました。2日後、電車の運転再開とともにつくばに帰り、その足で北条へ。邸宅の状況と、地区の建物群の被害に愕然としたものです。

後日、学生メンバーで集まって被害状況の詳細確認と記録をし、今後について相談します。建物や敷地の被害は、擁壁の崩落を中心に、建物の傾き、砂壁の剥落、コンクリート構造部のひび割れ等、不安要素がたくさんありました。
余震も続いていたので、邸宅公開は当面中止でした。
今まで積み上げてきたものが一瞬で崩されたようなショックでしたが、不思議と落ち込んではいなかったような気がします。地震で壊れたものは仕方がない。埃だらけの邸宅を一部屋一部屋片付けてきた我々です。ひととおり記録を取ると、気持ちも新たに再び掃除に取り組みました。

幸いにも、震災の年の4月から活動に新たな仲間が加わり、邸宅の整備や備品整理を重点化することが予定されていました。ここに震災からの復旧・復興を加え、修繕も行うことになりました。

活動再開して最初の4月の月例お掃除会は、地震で落ちてきた埃を掃除するとともに、押入の家財道具を全て外に出して、徹底的に大掃除。どうせやり直しなら、震災前よりもきれいにしてやろう。そんな思いでやっていた気がします。

廊下の掃き掃除。埃で廊下が白くなっています。

この際なので、押入まで徹底的に。


お掃除の日は、やっぱりみんなでカレー。いただきます!

被災箇所については、NPOメンバー等で応急処置を進めました。
屋根瓦が剥落したため、修理工事までの間は、ビニールシートで雨水の侵入を防ぎます。

大谷石の擁壁の崩落箇所は、手作りの竹垣を組んで、お客さんを迎えられる状態に再生しました。
崩れた階段は、NPOメンバーから寄贈を受けた大谷石で復旧します。
なお擁壁を大谷石で復旧したのは、震災から3年後のことです。

建物の傾きは、専門業者に依頼して本館の床下補強などを行い、震災以前からの不同沈下とあわせて修繕しました。これにより大人数の収容に対応。
2011年の11月には、劇団の百景社さんと、コンテンポラリーダンスプロジェクトのAAPAさんとの共催で、矢中の杜”縁”プロジェクトを開催しました。震災による公開中止を乗り越えた半年後、邸宅には多くのお客さんが集まり、賑やかな秋の3日間となりました。


この頃のことは、当時井上さんはじめメンバーが克明にブログに記事にしています。
守り人ブログのカテゴリーでは、
【3.11震災被災・復興】
【邸宅庭園の整備・修繕】
【月例お掃除会】
の2011年頃の記事を読むと、当時の感覚が伝わってきます。

震災から1年がたち、屋根瓦の修理により屋根のビニールシートもようやく外れ、震災の傷跡はだいぶ元の姿を取り戻してきました。
2012年の春、早川さんと僕は大学院を卒業しました。僕はつくばを離れ、横浜へ。活動の第一線からは退きますが、ときどきまたつくばで「土木」をするつもりでいました。
もう当分は、自然災害の猛威を受けることはないだろう。当時、僕だけでなく他のメンバーもそう思っていたはずです。そんな中、震災から1年あまり経ったあの日、またも自然災害が矢中の杜を襲いました。

次回の活動史は、2012年5月の北条竜巻を、早川さんと2回にわたって振り返ります。


梅の花の便りも聞こえる季節になり、矢中の杜の木々も徐々に春の支度を始めています。
次回の邸宅公開は2/24(土)です。春の気配を探しに、どうぞお越しください。

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