“矢中の杜”をはじめた守り人の話 6 -バランスを考えながら、声をかけ、協力者を集める-

こんにちは、井上です。

前回は、オーナーに対して自分の姿勢を伝える努力をしたことについて書きました。

今回は、邸宅を動かし始めるにあたってどのような人にどのようなことを考えながら協力を求めていったかを振り返りたいと思います。

第一に、数十年もの間空き家となっていた邸宅ですから、掃除をしないことには何も始まりません。それには絶対的なマンパワーが必要です。

また、邸宅を文化財として残していくためには、建築学的な調査と、文化的価値の評価を行うことも必要です。これには専門家の力が必要です。

そして、邸宅の保存活用をすることは、邸宅単体だけでなく地域にとっても意義があり、賛同を得られるようにしなければなりません。

邸宅を自分の専門分野にしたいという個人的な想いを持ってはいましたが、とはいえ自分だけでどうにかできる話ではもちろんありませんし、自分の考えだけで動くべきでもなく、周囲への声かけには常々すごく気を遣いました。

邸宅を取り巻く人々について語るにあたって、まず「4人会」について触れなければなりません。

オーナーが代わった時から、邸宅の今後について検討するべく度々集まっていたのは自称「4人会」のメンバーでした。

オーナー、オーナーの以前からの知人で北条のまちづくりにも関わり私をオーナーに紹介してくださったFさん、学生有志として一緒に北条のまちづくりに参加していた大学の先輩である早川さん(後の初代NPO理事長)、そして私の4人です。

オーナーはそれまで北条地区との関わりはほとんどなかったかと思うのですが、他の3人は邸宅以前に、北条のまちづくりに関わっていたので、それぞれ立場や地域との付き合い方がありました。

その頃の北条地区は、地域づくり団体としての「北条街づくり振興会」が発足したり、筑波大学がいろいろな形で関わりを持ち始めたり、地域交流拠点としての「北条ふれあい館」が開館したり、大きなイベントを開催したり、地域の新たな特産品「北条米スクリーム」の販売を開始したり…と、それはもう激動といえる時期を迎えていました。

そこにきて、ずっと空き家で手が付けられなかった“矢中御殿”までも動き出すとなると、誰がどのように動くかという点で、きちんと話をしておくことは重要でした。

4人会としては、早い段階で振興会の方に、邸宅の所有者が代わって今後何かしらの形で邸宅を活用していくことになるだろうという話はしたのですが、何せ先述の通り振興会は激動の中でしたから、邸宅に関してその時点ではとてもじゃないが主体的には関われない、ということでした。

振興会が深く関われないとなると、独自に動くしかありません。

しかし、早川さんと私は学生団体「チームごじゃっぺ」の中心として振興会の事業の実働部分にすでに深く関わっていたため、邸宅の方に力を割き過ぎて振興会で担っている部分が疎かになると、よくないわけです。

そういう面で、私自身邸宅のことに没頭するようでいながらも、振興会の方も迷惑がかからないように…と動き方については常に留意していました。

掃除に必要なマンパワーという点では、「チームごじゃっぺ」のメンバーは率先力として一番の候補でしたが、彼らを邸宅の方に巻き込み過ぎて振興会関連の活動に支障がないようにしないと…と。その点は早川さんとも共通認識を持っていて、学生の巻き込み方については互いにバランスを取るようにしていたように記憶しています。

また、別の面でバランスを取ることに気をつけたのは、大学関連でした。

北条地区には筑波大学の複数の分野の専攻(教員や学生)が関わっていて、中には建築関係の方々も多くいらっしゃいました。

なので、邸宅の調査をするにあたって、その方々に声をかけるべきか、というのも難しい部分でした。

建築といっても文化財建造物は調査の仕方や、関与する制度や法律なども特殊な分野ですので、邸宅を文化財として残していくことを目指すのであれば、その部分で専門であり私自身も所属している世界遺産専攻の協力をぜひとも得たかったのですが、世界遺産専攻はそれまで北条地区に関わっていたわけではないので、先に関わっていた専攻の方々を差し置いて動くとなると問題があるだろうか…。

大学内でもいろいろな関係性がありますから、むやみやたらに多方面に声をかけるわけにもいきません。

など、私自身、北条地区に関わっていたがゆえに、気を遣う部分が少なからずありました。

4人会でも、すでに地域に築かれている関係に対してはとても配慮しながら話し合いを行っていました。4人会の動き方次第でも、邸宅やオーナーの見られ方、周りから持たれる印象は変わってしまうので、なかなかデリケートな部分でした。

こういったことを背景にしつつ、結果的には、マンパワーと専門家を集めるべく、私から「チームごじゃっぺ」のメンバーと、世界遺産専攻の教員や大学院生に段階を踏みながら声をかけて、本格的に掃除と調査を開始するに至りました。

それが2009年の春、ということですね。

ここから私は、毎週末つなぎに身を包み、全身汚れまみれになり、中学生以来のニキビを顔全体に広げながら(邸宅内の埃やゴミで皮膚が荒れまくり)、邸宅に通うという楽しい楽しい学生生活がスタートしたのでした。

青つなぎのオーナーと赤つなぎの私がもはや名物に…

以前に当ブログの別の連載「矢中の杜活動史」にて、「第2回—邸宅との出合い(寺尾編)」や「第4回—邸宅お掃除のこと(屋内編)」「第6回—文化財の調査のこと」を書いてくれた寺尾さんは、まさにこの時期に、私に声をかけられて、そこからまんまとどっぷり矢中の杜に関わることになったわけですね。

掃除や調査の当時の様子は、この寺尾さんの記事でしっかり記述されていますので、こちらもぜひ読んでみてくださいね。

こんなところで掃除の昼休憩を取っていたこともありました(今はできませんよ)

「バランスを取る」というのは、この時に限らず、その後活動を続ける中でも、ずっと考え続けてきたように思います。

これが、関係を築く、ということなのかなと思います。

では、今回はこの辺で。

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