2021.07.08

“矢中の杜”をはじめた守り人の話 7 -邸宅が文化財になるまでの道のり 調査編-

こんにちは。井上です。

いよいよ本格的に掃除や調査を始めることになった2009年。

この年は、邸宅のハード面、つまり調査と整備(掃除・修繕)と管理運営体制(NPO法人化、外部団体との連携、活用案)について、同時並行で検討を重ねていました。

ゼロからの立ち上げですので、とにかくいろんな案が出てはまた変わる、ということを繰り返していて、この時期の記憶を整理するのに少し苦労しています。

今回は、その中でもハード面の動き、とくに邸宅の調査から文化財登録申請、そして邸宅が「国登録有形文化財」になるまでの過程を書いていきます。

早川さんが以前に書いたブログ投稿

矢中の杜活動史 第3回―文化財にしよう

矢中の杜活動史 第5回—文化財にできるんだ?

寺尾さんが書いた

矢中の杜活動史 第6回—文化財の調査のこと

へのアンサー投稿ということにもなるかなと思います。

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さて、そもそも「文化財」とは何なのか、ご存知でしょうか。

「国宝」「重要文化財」といった言葉は聞いたことがあったり、旅行に行った際の観光対象だったり、博物館で展示されているのを鑑賞したり。全く触れたことはないという方はいないのではないでしょうか。

しかし、そもそもどうやって文化財になるのか、文化財にはどんな種類があるのか、など詳しく知っている人は実はそう多くないのではと思います。

はじめから「文化財」であるモノはありません。

そのモノに「文化的価値」があると評価された時、はじめてそれは「文化財」になります。

ではその「文化的価値」とは?

概念的にいうと、そのモノを「大切で、後世に残したいと思う」ことですね。

なので極論をいえば、たとえば“自分が小さいころから大事にしているおもちゃ”だって文化財といえるかもしれません。

しかし社会的に守り残していくためには個人の主観による価値評価だけでは叶いません。

文化的価値を定義するのは容易ではありませんし、人によって説明の仕方は異なりますが、NPOメンバーなどに説明する際には、文化的価値の評価基準を私なりに以下のようにまとめるようにしています。

・歴史性

・芸術性

・希少性(数が少ない、他に類を見ない)

・公共性(個人ではなく、多数の人にとって存在意義がある)

・真正性(本物である)

これらの面に関して客観的、学術的、科学的にみて評価が高いとされ、その結果守り残していく対象となったものが文化財といえます。

そのためには、価値評価の素地となる「調査」がとても重要になってきます。

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旧矢中邸に関しては、当初は邸宅に関する客観的なデータは全くと言っていいほどありませんでした。

わかっているのは、施主が「矢中龍次郎」という人物だということくらい。

具体的な建築年代や建築的な特徴、歴史的な背景はわからず、図面もありません。

いくら個人的に魅力を感じようと、この状況では文化財とはいえません。

そのため、とにかく邸宅についてなるべく多くの情報を得るため、

①聞き取り調査

②文献調査

③現地調査

を、同時並行で実施していきました。

①聞き取り調査

オーナーに仲介していただいて、邸宅の施主矢中龍次郎さんのお孫さんである現株式会社マノールの矢中社長にお話を伺いました。

すでに所有者が代わったにもかかわらず邸宅についてお聞きするのは迷惑にならないかな…と心配しつつご連絡したのですが、矢中社長はとても好意的に受け止めてくださり、邸宅や龍次郎さんのことについて、いろいろな話を聞かせてくださいました。メールでのやり取りだけでなく、会社にも伺い、社内に残る貴重な資料も閲覧させていただいたり、矢中家に残る資料を貸してくださったりと、多大なご協力をいただきました。中でも、邸宅の建築開始から完成までの様子を記録したアルバムを受け取った時は、もう大興奮でした。そこには無数の古写真が綺麗に並べてあり、どのような順序で、どのような職人が、どのように建築していったが非常によくわかるものでした。そして、写真のほとんどに龍次郎さんが写っていて、いかにこの邸宅の建築が龍次郎さんにとって楽しいものだったかが伝わってきました。現在のNPO活動でもこのアルバムに収めてある古写真は、貴重な資料として、しばしば活用しています。

現在は取り壊されていて見ることのできない幻の別館離れが写っています。
その前に立っているはもちろん龍次郎さん(アルバムより)

また、地域の方々にも聞き取りに伺いました。

邸宅の建築年代は昭和初期だったので、当時のことを覚えている住民の方も少なからずいらっしゃることは幸いでした。聞き取りの中で、地元では、あまりの豪華さに「矢中御殿」と呼ばれていたこと、小学校の登下校の時に児童たちが塀の上から覗いたりしていたこと、夕方に矢中龍次郎さんが散歩しているのを見かけたことがあること、邸宅の中には迎賓棟があって特別な客しかそこには入れなかったこと、などなど。当時を知る方々から、いろいろなエピソードを聞くことができました。ただ邸宅が空き家になってからの期間が長かったので、若い世代にはほとんど周知されていないこともわかりました。

②文献調査

この調査が進んだのは、毎週末取り組んでいた邸宅の掃除でした。

邸宅には、当時の調度品や生活道具が無数に残ったままとなっており、掃除の際にはそういった遺留品もすべて一通り出して確認していきました。

その中には、龍次郎さんが残したであろう当時の文献資料も多数あったのです。龍次郎さんが社長だった頃の株式会社マノールのカタログ(これがレトロなデザインと色調で、すごくとても可愛い!)、龍次郎さんが寄稿した論文が載った雑誌、邸宅の建築に関して取り上げた新聞記事のスクラップファイルや建築雑誌。そして、図面。掃除を進めるうちにこういった貴重な資料が次から次へと出てくるのでした。

書斎の本棚。本はもちろん、箱や紙の包みの中も一つ一つ確認していくと、龍次郎さんが残した様々な資料が次から次へと出てきます。

物置室。こういうところからも、調査の役に立つものが出てくるのです

邸宅に残された調度品の数は膨大。
それを時間をかけてすべて一通り掃除をし、記録を取りました。

先に挙げたアルバムの古写真同様、これらの資料からは龍次郎さんがこの邸宅の建築をどれほど楽しんでいたか、どれほど強い想いを持って取り組んでいたかが、ありありと伝わってくるようでした。

また新たな資料が見つかる度に、謎に満ちていた邸宅の歴史が少しずつ紐解かれていくようで、まるで推理小説を読み進めているような心地で、次は何が明らかになるのだろうとワクワクする調査でした。

建築に関する雑誌や書籍。中には邸宅や龍次郎さんを取り上げた記事もありました。
自慢の邸宅が掲載されて、きっと喜んでおられたでしょう
どこかにないかな~としばらく探していた当時の図面。青図、配置図など10数枚。
これらが丸まった状態で押し入れの天袋から出てきた時は歓喜の声を上げました。

③現地調査

これはその名の通り、現在残っている邸宅の状況を把握する調査です。まずは建物のあらゆる部材を測り記録していく実測調査を行いました。普段は見えない小屋裏や床下などにも入り、できる限り詳細に実測を進めながら、構造や材料についても把握していきます。この実測調査の結果をもとに、現況の図面を作成します。

また、合わせて写真でも記録を残していきます。

この調査は一人ではとてもできないので、世界遺産専攻の研究員の方や院生の協力を得ながら行いました。

天井から小屋裏へ入ったり
床下へ潜ったり

(実測調査の様子は、当時調査に参加していた寺尾さんが詳しく書いてくれた前掲の矢中の杜活動史 第6回—文化財の調査のことに譲ります。)

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このような調査を地道に続ける中で、少しずつ龍次郎さんの来歴や、邸宅の建築意図、経緯がわかってきました。

はじめて邸宅を訪れた時は「一目惚れ」をした私でしたが、邸宅について知れば知るほど、直感だけでなく客観的に見ても文化的価値が高い建物だと、確信を持っていえるようになりました。

ほらね、やっぱり”ただの住宅”ではなかった!!

さてさて。

この調査結果を踏まえて、邸宅が後に「国登録有形文化財」になるわけですが、そこまでにはまたまだ長い道のりが続きます。

それはまた次回の記事で書くことにしましょう。

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